< なぜ増える、幼児(児童)虐待 >
夏休みも終わり元気いっぱいな子どもたちの姿や声が、本来あるべき環境に戻ってきたことは大変嬉しく、子どもの権利を擁護する立場からも当たり前のことだが、
ここ数年目にする、又は耳にする社会現象の中で特に目立っているのが、幼児・児童虐待である。
その全容は悲惨で悲惨で毎回紙面を読んでいられない程だ。
なぜ幼い子の、無抵抗な命に危害を加えるのだろう・・・・・。
その心理はいったいどこから来るのだろうか・・・・・・。
実はある温泉施設に行った時、居合わせた親子がまさに虐待に準ずる行為を展開していて、私は自分の取る次の行動を考えた。
いつ止めに入ろうかと!
無抵抗の、ましてや絶対的な信頼を寄せている親から浴びせられる恫喝と威圧、そして眼差し。
子どもはほんの小さな自分の欲求を伝えただけなのに・・・・・。
「前髪から乾かして」
小学1年生くらいの髪の長い女の子の母は、これ以前からああしろ・こうしろと女の子に大声を上げていた。
何人も周りに人がいるが、そんなことはお構いなしのようだ。
母は一方的に長い髪の後ろ側に周り、ドライヤーを当て始めた時の女の子の一言だった。
「何回言ったらわかるのよ。やってやってるんだからわがまま言うんじゃないよ。毎回毎回うるさいんだよ。」
と言いながらドライやーを持った手を振り上げた。要はキレたのである。
女の子があと一言、「でも」とか「だって」などど言ってしまったら、その手は振り下ろされたかもしれない。
案の定女の子はそれ以降一言も口をきかなくなった。
日常がこんな具合なら、この子の生活はどれほど神経をすり減らす毎日なんだろう。
心が痛くなった。
母はなぜそんなに怒るのか・・・・・、
母は何が気に入らないのか・・・・・、
母はそんな自分をどう理由づけているのだろうか・・・・・・。
母は怒っている自分の姿が鏡に映っていたはずだ。
幼児教育に関わっている一人間として、小さな物言わぬ全ての命を脅かす行為は絶対に許せない。
彼らの闇がどこから来るのか、また彼らをその行為に走らせる前に食い止める手段や機関や糸口を、どのように結んで行ったらいいのか、
待ったなしで問われている。
高度成長時代からバブル期を経て現在に至る、日本の闇の一部分と言えましょう。
社会構造の変革や急激なオートマチック化、電子機器の多用もその一因でしょう。
幼い頃から人の痛みや命の重さを、身にしみて感じられる環境をできるだけ作りたいと思います。
人と人が顔を合わせ、言葉を交わし、相手の心を読み取る。
自分が痛かった、怖かった、苦しかった体験も大切な感情です。
動物としての本来の機能をまずはきちんと育てなければいけません。
又絶対的にそれを受け止めて共有してくれる大人の存在も重要です。
本来は両親ですが、それがそうではない場合の私たちの存在も貴重といえるでしょう。
何のために生を受けて生まれてきたのか!
どの子も十分に笑顔の人生が踏み出せるように、祈らないではいられません。