< 大晦日 >

2010年も本当に早いもので、今日は大晦日です。

私の大掃除もこの辺でおしまいにして、今年をゆっくり締めくくりたいと思います。

幼稚園は冬休みですから、みんなそれぞれご家族で、楽しく過ごしている事と思います。

怪我や事故に気を付けて、素敵な新年を迎えてほしいと思います。

子どもたちの成長は一人一人違います。特に幼児期はその様子は本当に様々です。

「みんなの中で我が子がどうか」、では無く、「我が子がどんな経験をし、乗り越えてきたか。そしてそれをみんなの中で楽しんでいたか」

を認めてあげて下さい。一つ一つ階段を上りましょう。ある時は1段、2段と下がる時もありますが、階段は必ず上へ続いています。

今できる事をしっかり認めて、次の学年へつなげましょう。

来年小学校へ上がる年長さんのお母様がお子さんの成長を心配していらっしゃいました。

多くの事をしっかり身につけて、それらが開花する時は子どもたち一人一人みんな違います。

来年もちょっとずつの成長を見守りましょう。

今回は私の尊敬する、学びを乞う、人物の一人である瀬戸内寂聴さんのエッセイをご紹介しましょう。

この文はある自然保護団体の写真エッセイ集に載っていたものです。

『 花と蝶 』  瀬戸内寂聴

良寛さんの詩に、花は無心にして蝶を招き 蝶は無心にして花を訪ぬ

というのがあります。

花はそれぞれ美しく、その花だけが持ついい匂いを放っています。けれども花は美しさや匂いで、蝶を招きよせようという魂胆で咲いてい

るのではありません。

ただ自然のはからいで、そこに花が咲けば、蝶が飛んでくるし、蝶が何気なく飛んで来れば、 花はまた自然に開いて蝶を迎えます。

花も蝶も無心なのです。蝶が花の蜜を欲しがっても花はそれを拒まず、蝶が満足するまで、提供します。

美しい自然の営みがそこにあります。

秋の紅葉も、人に見せようとして紅葉するのではありません。無心に約束通りに時が来れば紅葉するだけです。それを美しいと、

眺め訪れるのは人間です。

でも人間は蝶とちがって無心では無く、人が見ていなければ、美しい枝を折り取って持ち帰ったり、不埒なことをします。

人は欲に心が染まって、無心では無くなっているからです。人間でも、赤ん坊の心は生まれたままで無心の清らかさです。

赤ん坊の目が清らかなのは、心の清らかさを映しているからです。

人は成長するのつれて、無心の心を失い欲望を生じ心を濁らせます。

人間の欲望を仏教では煩悩と呼びます。人間の煩悩の数は除夜の鐘と同じ百八つあるとされています。仏教の百八つとは無限という

意味です。無限の煩悩から、人はあらゆる苦しみや悩みを心に生みだすのです。煩悩はめらめらと炎を燃え上がらせているのです。

その熱さに心を焼かれ、人はいっそう苦しまねばなりません。

煩悩の炎を静め正常な心を取りもどそうとして、人は思わず超自然の神や仏に掌を合わせ、祈りをささげたくなります。神仏は無心の花

のように、近づくものを拒もうとはしません。ただ黙ってさしだされたその手に気がつき、それにすがることができるのは、縁というものの

はからいです。幸いにして宇宙の生命を司る神や仏と縁を結べた者は、幸運です。

人はみな生きている限り幸せになりたいと願っています。

幸せになる人間の権利は人権と名付けられ、どこの国でもそれを守る法律が定められています。それなのに、生きているほとんどの人

間が、現在の自分の立場に満足せず、もっと自分は幸福であるべきだと不平不満を抱いているのです。分が過ぎた幸福への夢の欲望

に、心を濁らせているからです。

美しい自然の無心の奉仕を有り難いと思い、その無償の愛に清められ、自分の心の濁りを洗いそそぎましょう。その時こそ、よみがえら

せた無心に、はじめてあふれる幸せを感じることができるでしょう。

 以上 エッセイ全文

私の自宅の近くにはお寺さんがあるので、除夜の鐘が聞こえるかもしれません。

煩悩を少しでも洗い落として、新年を迎えましょう。

皆様どうぞよいお年を! 

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